40代サラリーマンの「なぜ生きる?」と七つの習慣

40代で「生きる意味」を知ったサラリーマンによる充実した生き方を求めての奮闘劇

死ぬ意味

こんにちは。えちけんです。

 

長年考えてきた「生きる意味」、「人はなぜ生きるのか?」、いわゆる僕も含めた人の存在意義については、自分なりの納得できる答えに到達する事ができました。

 

しかし、人の人生にはもう一つの大きな謎があります。

 

「死」です。

 

意味を持って生まれてきた僕たちは、なぜ死んでしまうのでしょうか。次はこの「死の意味」について考えていきたいと思います。

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1.様々な死のパターン

 

人の”死”は”生”よりも複雑です。

  • 生を受けて間もなく亡くなる者

  • 自然災害や事故で突然亡くなる者

  • すべてをやりつくし、満足して笑顔で亡くなる者

こんなにも様々な”死”の在り方があります。

 

全く異なる死の在り方。

 

それぞれの在り方に死の意味はあるのでしょうか。

 

1-1. 生を受けて間もなく亡くなる者

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周囲から待ち望まれてこの世に誕生した命。

しかし、その後まもなくして散っていった命。

まだ何もしていない。

これから、たくさん世の中に貢献しようと思っていたのに。

生きる事ができなかった命なので”なぜ生きる?という生の意味を問う事はできません。

生があっての死。生の意味を問う事が出来ないので死の意味も問う事ができません。

 

つまり、この死一つだけを見ていては”死の意味”にはたどり着きません。

 

1-2.自然災害や事故で突然亡くなる者

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僕は、阪神大震災を大阪で、東日本大震災を仙台で経験しました。

僕自身は大きな影響はなかったですが、特に沿岸部では津波で多くの人の命が奪われました。

この人たちの中には、未来に希望を持って日々努力していた人もいたことでしょう。

その時僕は、特に人生に目標もなく日々を生きていました。

なぜ、僕のようなダラダラと生きていた人間は生き残って、みんなの為にがんばっていた人が亡くなってしまったのか。

確かなのは、災害は人を選んでいないことです。

 

ルーレットのようにランダムで選ばれてます。

 

「まさか僕には当てはまらない出来事だ。」

「私は世の中に貢献しているので、選ばれるはずはない。」

「毎年初詣でお祈りしてるから大丈夫だ。」

 

なんていう言い分は聞いてもらえません。

明日は我が身ではないという保証はどこにもないです。

 

つまり、この場合もこの死一つだけを見ていては”死の意味にたどり着けないのです。

 

1-3.すべてをやりつくし、満足して笑顔で亡くなる者

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歴史の教科書にのるような過去の偉人達。

教科書にのらないまでも、世の中に大きな貢献をして死んでいった人たち。

もしかしたら、この人たちは十分に満足して死んでいったのかもしれません。

そのようなの人たちに間違いなく”生の意味”はあった事でしょう。

しかし、このような人達でさえこの死一つだけを見ていては、”なぜ死ぬのか?”という”死の意味”には、どうやってもつながらないのです。

もっともっと永く生きていれば、多くの事を成し遂げられたかもしれないのに”なぜ死んでしまったのか?”と。

2.”死の意味”の視野を広げる

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このように、人を1人の人間の枠組みで考えた時、”死の意味”にたどり着けない事に気付きました。

 

そこで、少し視野を広げて考えてみました。

 

視野を広げて考えるとはどういうことか。

つまり、1人の人間としての死ではなく、人類全体としての人間の死という考え方です。

では、”人類全体としての人間の死”という考えのもと”死の意味”を考えていきましょう。

3.人類全体としての人間の死

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この考えを進めていく上でたった一つの条件があります。

 

人類全体が同じ目的に向かって進んでいる。

 

この人類の目的とは、生の意味、自分の存在意義の記事で書いたように、人類としての存在が未来永劫続くようにする事です。

以下の記事を参照下さい。

h-kenken.hatenablog.jp

 

そして僕たち人間1人1人は、人類としての目的を達成するために各々が各々の働きをしているという事です。

 

ただ、それだと、

「僕や私でなくてもよくない?」

「そもそも僕として私として生きる意味がなくない?」

という声も聞こえてくることでしょう。

 

そんなことはありません。

 

人類が未来永劫存在し続けるという最終目的は同じでも、その目的を達成するためのやり方は個人個人で様々です。

そこに、個人の存在意義が成り立ってきます。

 

結論として、僕が考える人類としての1人の人間の死は、人類として最終目的を達成するためのバトンの受け渡しです。

 

つまり、死ぬことによって次の世代へ繋げるということです。

 

4.改めて、様々な死のパターンの意味

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4-1.生を受けて間もなく亡くなる場合のバトンの受け渡し

この場合は人類の存在が未来永劫続くための活動をまだ何も出来ていません。

だから「バトンを受け渡すも何も、受け渡すものがないじゃないか。」

と考えるかもしれません。

 

しかしそんなことはありません。

 

みなさんも、生まれて間もなく亡くなった人の話を聞いたことがあると思います。

その時どのような事を感じるでしょうか?

 

僕は「命のはかなさ」「命の大切さ」を感じました。

 

それによって、「無意味な殺生はしてはいけない」、「戦争なんてもってのほかだ」と感じました。

僕がそう感じたということは、同じように感じた人は他にもいると思います。

つまり、生まれて間もなく亡くなる事によって、「平和への思い」を次の世代に受け継いだ事になります。

 

4-2.自然災害や事故で突然亡くなる場合のバトンの受け渡し

この場合、次の世代に受け渡す物は二つあります。

  1. 平和への思い
  2. その人が生きている間に行ってきた事

1.の「平和への思い」の考え方は、生を受けて間もなく亡くなる場合と同じです。

2.の「その人が生きている間に行ってきた事」の考え方は、文字の通りです。

その人がこれまでに行ってきた実績を、後輩や子供達が受け継いで、さらにブラシュアップしていきます。

歴史に名を残さないまでも、確実に人類の「平和」や「進歩」に関連する活動を行ってきたのであれば、それは人類にとって後世に伝えるべき財産になります。

 

4-3.すべてをやりつくし、満足して笑顔で亡くなる者のバトンの受け渡し

この場合も受け渡す物は同じで、以下の2つがあります。

  1. 平和への思い
  2. その人が生きている間に行ってきた事

1.の「平和への思い」の考え方は、生を受けて間もなく亡くなる場合と同じです。

2.の「その人が生きている間に行ってきた事」の考え方は、自然災害や事故で突然亡くなる場合と同じですが、中身の濃さが違います。

 

1人の人間が一生をかけてすべてをやりつくしたのならば、人類としての存在が未来永劫続くために相当貢献したことでしょう。

 

きっと、歴史に名を残していると思います。

間違いなく、後世のより多くの人達に影響を与えることでしょう。

そうなれば、その人が行ってきた活動を後輩や子供達だけに引き継ぐのではなく、より多くの人が引き継いでくれると思います。

 

5.まとめ

人が死ぬ意味とは?

それは、人類が未来永劫存在し続けるための活動のバトンを後世の人達に渡す事です。

 

 

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